寺めぐり

柴又:雨中Wanderung

金沢文庫駅→ 京急・都営地下鉄・京成→ 柴又駅→ 帝釈天→ 矢切の渡し→ 京成金町駅→ 高砂駅→ 金沢文庫駅

10月3日、朝目覚めたら朝陽、急ぎ出立したが、傘をさして江戸川堤防沿いを歩くことに。

帰りの電車も座れたので、浅草・松喜の神戸牛の買出しは取り止め、ウトウトしている間に電車は能見台駅を通過した。距離は短いがびしょ濡れで疲れたのだろうか。

久しぶりの柴又駅、小さな駅前広場中央のご存知寅さんの銅像が小雨に濡れている。ロス出張の度に数え切れないほどJALの機中で観た寅次郎映画、「男はつらいよ」が懐かしい。

Shibamata_3_20091003参道を抜けて先ず、帝釈天を参詣する。バスツアーのお年寄りの団体で境内は混雑、しばらく二門で雨宿り。堂内では小さな子連れ家族の御祈祷の意味不明の読経を拝聴。束の間の晴れ間、長く続かない。瑞龍の松がみごと、縁故疎開先で知った庚申様が、今でも庚申まいりとして伝えられている。

Shibamata_4_20091003今まで度々食事したことのある川千家で鰻重を注文。痩せた鰻の食感は悪い。高木屋の草餅も値上げ。客足が減っているのかも知れないが、仲居さんや売り手の小母さん達のきびきびしたサービスに柴又の良き雰囲気が感じられる。

Shibamata_5_20091003堤の上で暫し矢切の渡しを眺める。対岸の水元からの船が着き、傘を差した一団が堤を上り始める。どうすべいか!? 小合溜(水元公園)行きは諦め、サイクリング道路を金町に向けて歩き始める。オゾン処理装置完成後に案内された金町浄水所への取水塔、新しく大きくなったのだろうか。雨に煙った江戸川

柴又帝釈天

日蓮宗経栄山題経寺、寛永六年(1629)開基、開山は下総中山法華経寺第十九世禅那院日忠上人、その弟子第二代題経院日栄上人、御本尊の板本尊は日蓮上人御彫の帝釈天。帝釈堂外上部は大正末から昭和九年までに彫られた法華経説話彫刻が見事である。

帝釈天題経寺

http://www.taishakuten.or.jp/index2.html 

柴又川千家

http://www.kawachiya.biz/

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程ヶ谷宿から井土ヶ谷Wanderung

Yokohamakaikokuhaku_2_200909249月24日、横浜開港祭ヒルサイドで諏訪大社御柱祭のイベントがあるとの情報、処がなにもなし。動員された小学生の団体で賑っていたが、予想どおり見るべきものは皆無。税金の無駄使いも甚だしい!!

Hodogayajyuku_1_20090924予定外であったが、相鉄天王町駅まで戻り、3回目の程ヶ谷宿を散策。

橘樹天王社では寛文九年(1669)の年号が刻まれた六手青面金剛庚申塔がある。今から340年前、紀伊国屋文左衛門が誕生した頃だ。万治・寛文期に建立された見事な彫りの石塔が、ご当地とお隣の藤沢宿にも多数残されている。

Hodogayajyuku_2_20090924日蓮大聖人帷子の里御霊跡 大蓮寺の石段を登る。 老御住職が庭の手入れをされている。700年の歴史がある古刹、勧められて銀杏の実が散在する高みにある本堂に続く鉄製の階段を登り、注意されたスズメバチの姿を見て早々に退散する。

旧東海道を金澤横町四道標で左折、東海道の先“いわな坂”の途中右傍に前回見過した御所台(政子)の井戸を確認、坂の勾配が急になる。

Hodogayajyuku_4_20090924北向き地蔵尊を「是よ里右の方くめい寺道」を行く。程なく高速神奈川3号狩場線、斜め右の歩道を渡る。吹上げる海風が心地よい。直ぐ先の下方に臨済宗円覚寺派宝林寺の屋根が見えるので、どうやら ぐめい寺道があったと思われる。

犬を連れた老人の後を狭く急な石段を下る。彼の誘いで左手の高み(標高30㍍)へ。春日神社址という小さな丘の頂に自宅と菜園がある。桜花と冬の富士山が素晴らしいが、夏は蚊、ムカデ、蛇が自宅内に入り込み、蚊取り線香は3箇所に置いてあるという。

80歳になる老夫婦には石段は辛かろうと思えた。

井土ヶ谷駅近くのアスカという名の喫茶店前を通りかかると帳場に老主人の姿。クリームあんみつ(750)は本格作りの絶品でした。

東国八十八札所めぐり(11):保土ヶ谷区http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2008/01/post_52a8.html

東国八十八札所めぐり(13):南区http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2008/02/post_6b97.html

安房・清澄寺

http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_92fc.html

諏訪御柱祭

http://www.onbashira.jp/ 

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曹洞宗大本山総持寺

終戦記念日の8月15日、気温が低いとの予報から、久しぶりの寺めぐり。参詣後に鶴見駅前の翠華楼でランチ。冷房が効いた広い食堂で時間をつぶし、次の目的地の川崎大師を訪ねる。

最近は京浜四大本山と呼ばれているが、部外者にはどんな連携があるのか覗い知れない。

京急鶴見駅下車、旧東海道を横浜方向に歩く、多くの店の看板が変わっているのに驚かされる。左手にあるヨット好きの主婦連の経営するインド・カレーの店は健在、そこを右折して正面が総持寺の参道に続く。京急線の高架下の先はJRの開かずの踏み切り、右手にある歩道橋の両脇にエレベータが新設されていた。

Sojiji_1_20090815能登・輪島に瑩山(けいざん)禅師が元享元年(1321)に開いた、曹洞宗の修行寺。明治31年(1898)の大火で多くを焼失後、明治四十四年(1911)に現在地の鶴見に移された。

樹木に覆われた石畳の参道は、涼しい海風が背後から吹き爽快な気分になる。

Sojiji_4_20090815三松関(総門)を抜け、コンクリート造りの山門から、広い境内が広がる。仏殿への向唐門(むかいからもん)は閉鎖、右手の三松閣前を経て涼しい風が吹き抜ける太祖堂へ。

新しく右脇に銀色の聖観世音菩薩像が建立され、前庭Sojiji_6_200890815が整備されて木造の仏殿がどっしりと存在感を増す。ここに釈迦如来像が安置されている。

曹洞宗大本山諸嶽山総持寺、創建は伝奈良時代、開基は伝行基菩薩。御本尊は釈迦如来像。

翠華楼では五目定食を注文、シュウマイが美味い。

京急川崎駅から大師線に乗換え、川崎大師駅へ。真言宗智山派大本山金剛山平間寺、度々参詣する寺院であるが、浅草寺と同様に戦災で全山が焼失した後に再建された鉄筋コンクリート造りの建物である。陽射しが弱まる4時過ぎに帰途につく。

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羽田Wanderung

金沢文庫駅→ 羽田空港駅→ 穴守稲荷駅→ 徒歩→ 大師橋→ 千世→ 弁天橋→ 穴守稲荷神社→ 穴守稲荷駅→ 金沢文庫駅

7月26日(日)、前々から気になっていた羽田・千世のタコ料理を食べに行く。駅への道、湘南の強い日差しが射す午後、早々にルートを川崎大師から羽田空港に変更する。

久しぶりの羽田空港、すっかり様変わり。40年ほど前、職場の人達や親族の万歳の声に送られて初めて西ドイツSiemensへの企業留学に旅立った日が、走馬灯の様に思い浮ぶ。

多摩川に架かる大師橋を初めて徒歩で往復。頬に感じる塩気を含んだ風と青空、橋の袂の羽田神社を参拝する。

合同祭礼で羽田一帯はどの横丁も神輿・神輿の夏祭り。若いおなごの担ぎ手が目立つ。深川・富岡八幡や田端八幡様のワッショイ・ワッショイの掛け声もなく、バケツの水を浴びせる事もない、大人しい祭り。

Anamoriinari_5_200707265時開店を待って店へ。テレビで観ていたより広い店内。主人が乗合い釣り船に乗って獲ったタコ・イカ・アナゴではとても足らないだろうな! つまらぬことを考えながらカウンター席につく。イカとタコを注文、名物のタコ飯はやめる。確かに新鮮、スルメイカ刺とミズダコ串焼き。観光客は皆無、お客は地元の方、祭礼の帰りらしい。

若旦那らしい調理人が店の前に出て弁天橋の鳥居と穴守稲荷への道を教えてくれる。羽田の人達には親切な昔の東京人気質が残る。

Anamoriinari_6_20070726多摩川河口からの涼しい風が心地よい弁天橋、合同祭礼を祝う大漁旗が両欄干にはためく。先ほどから次々に大型旅客機が金沢沖方面へ離陸する。日本航空の尾翼に描かれた太陽?のマークのみ。海外出張時は鶴のマークの日航とルフトハンザに優先搭乗していたが、確かにJALの新シンボルマークは実用的な価値があることを知る。

Anamoriinari_7_20090726_2文化・文政(1818年)に創建された穴守稲荷は、終戦直後のGHQによる羽田飛行場内からの強制排除により、現在地に移る。写真は穴守稲荷の神輿です。

羽田空港の鳥居移設

http://www.ffortune.net/social/seso/nihon-today/haneda-torii.htm 

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ぼくあずささん 写真と記事を拝見しました。 夏祭りの撮影、暗くなるまでご苦労さまでした。 日本独特の風物詩でしょうか。 京浜羽田線の穴森駅、昔米国のHobartという業務用調理器具メーカーがありよく行きました。 神社には行きそびれましたが。

村尾さん、そういえば、飛行機の調理器具は米国製でしょうか。 トイレユニット、日本製が強いと聞いたことがありますが。 Hobart、昔世界を席巻していましたが、日本勢(特に星崎)が強く苦戦しました。 今でもホテルの洗浄機(いわゆる皿洗い機)は強いと思いますが。

                                                                  大嶋 2009/07/27

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ぼくあずさ、大嶋 御二方へ ・・・ 7/27 12:55 村尾

ぼくあずささんへ

羽田の夏祭りと穴森稲荷、写真を沢山お送りいただき有難うございます。まことに懐かしい光景です。

昔は新しい飛行機を受け取るとき、1号機は穴森稲荷の神主をアメリカまで連れて行き、サンデイエゴやシアトルで御祓いをしました。地元の報道陣にも珍しいらしくカメラの長い列が出来ました。2号機以降は羽田で御祓いをしましたが、あるとき、穴森稲荷の神主の祝詞が途切れ途切れになったことがあります。会社側出席者の中に、担当は広報部でしたが、伊勢神宮の祭主の子息がおり、お互いに面識がないのに、穴森稲荷の神主は参列者の中から激しい霊気を感じて、いつものようには声が出なかったとのことでした。霊気を発する方も、それを感じ取った方も、私達俗人から見れば尋常ではありませんが、それ以来、穴守稲荷の神主を見直しました。どうも八百万の神々はいるようです。

大嶋さんへ

機内の調理器具は今JAMCO(日本航空整備)製がほぼ100%です。機内食のトレーには、御存知の通り、温めておく料理と冷やしておく料理が並んでいますが、かつてはこれを保温機と冷蔵庫へ収めておき、食事前に客室乗務員が取り出してトレーに盛り付けました。

今は、温かい料理も冷たい料理もトレーの所定の場所に皿を置き、そのまま重ねてギャレーに収めれば、温める皿は温かくし、冷たい皿は冷やし続けるようになっています。この便利な方法をJAMCOが開発し、以来このギャレーが世界的に広まっています。

叉、機内食製造工場は、これも蒲田近辺にありますが、日本調理器の製品が多用されています。本来、私の専門外ですが、マレーシア航空の機内食工場を近代化するための提案を行った折に、日本調理器へ赴いて教えてもらいました。日本調理器はかつて帝国海軍の給食担当技術者が作った会社だそうで、軍艦の中の調理設備のノウハウが活かされていました。一俵の米を一挙に炊き上げる炊飯器もその折に初めて見て驚き、日本の産業が如何に広い裾野を持っているかと感心しました。

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村尾さん、大嶋さん

mailありがとうございました。

羽田Wanderungぼくあずさの寺めぐりに掲載しました。

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神主さんの話、レベルは低いのですが、私も同様な経験がありますので紹介します。一般の方には多分信じ難いことだと思いますが。神道のもつ純粋・神秘なのでしょうか。

15年ほど前に自宅の建替の際、近くの瀬戸神社に地鎮祭をお願いしました。神主さんをお迎えする車の中で、「親戚に昔、三輪神社の宮司を勤めた人がいる」となにげなく話した途端、最敬礼でもしそうな態度に急変、驚きました。

                                                             ぼくあずさ 2009/07/27

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朝顔市と鬼子母神

品川駅→ 山手線→ 鶯谷駅→ 徒歩→ 入谷・鬼子母神→ 御徒町駅→ 池袋駅→ 徒歩→サンシャイン文化会館→ 雑司が谷・鬼子母神→ 鬼子母神駅→ 都電→ 早稲田駅→ 徒歩→ 早稲田大学→ 高田馬場駅→ 品川駅

7月7日初めての朝顔市見物、鶯谷駅前の言問通りを右折、根岸三丁目の交差点から出店が続く、右手の鬼子母神に至る。人の波、夥しい数の色とりどりの朝顔が並べられ、僅かに江戸情緒を感じる。

あれ・あれ中学時代の親友、鯨井さんの二階屋があった辺りはマンションが林立して昔の面影がない。此処が根岸の里とは思いも因らず。

Iriyakishibojin_1_20090707入谷鬼子母神

日蓮宗眞源寺、万治二年(1659)に日融上人が創建、御本尊は鬼子母神。

入谷の朝顔市

              .       http://www.dentan.jp/asagao/gao0.html

昭和道を上野へ、旧万年町辺り、バイクの店が並ぶ。アメ横を経て松坂屋先のぽんたへ。Wienerschnizelと言うが、此処は厚肉カツレツ。nicht preiswert?

Sunshineorientmuseum_20090707サンシャイン文化会館での吉竹めぐみさんの写真展、

『遊牧の民ベドウィンーシリア沙漠に生きてー』

写真展開催のご案内 [中近東・アフリカ]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2009-05-09-1

を観てから、手書きの地図を片手に都電雑司が谷駅へ。此処まで来れば土地勘が蘇える、線路沿いに歩き、右折して目的の雑司が谷・鬼子母神に至る。広い境内はぎっしりと屋台が集まり、祭りの雰囲気だが参詣人は疎ら。

Zoushigayakishibojin_20090707本堂は寛文四年(1664)に建立されたもの、堂内には美しい絵馬が飾られている。文化三年(1810)、龍満月の能狂言図。学生時代に訪ねた時は、寂れた場末の寺の趣であったが。

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雑司が谷・鬼子母神

http://www.kishimojin.jp/

Wasedauni_20090707大隈庭園の日陰の芝生で休む、外人留学生が多い。4時大隈講堂からの鐘の音で閉園を知る。坪内逍遥記念演劇博物館も閉館時刻だろう。新しく建てられた商学部の校舎、2階へはエスカレーターがあり、そこにある広い談話室内を見物。女子学生が多いが、皆さん真面目な感じ。さすがは早稲田だと独り得心する。やはり、キャンパスは学生がいると活気がある。

卒後50年のホームカミングデーに再訪しよう。数の減った古本屋街を歩き、高田馬場駅に至る。

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鎌倉・大町釈迦堂口遺跡

Kamakura_shakado_200906196月19日の読売夕刊の切抜きを転載する。写真に上部に橋が架かった切通は初めて見た。現在は不動産会社が所有しているが、買収して文化遺跡として整備・公開して欲しいものだ。

鎌倉幕府初代執権北条時政(1238~1215年)の邸宅跡とされていた処が、鎌倉市教委の発掘調査の結果、最も古い遺構が13世紀後半であることが判明した。

その遺跡の所在が分らぬ釈迦堂の創建は仁元年(1224)と言われることから、釈迦堂跡でもない。では、いったい比企能員(よしかず、?~1203年10月8日)は、何処で北条政子と父時政に謀殺されたのだろうか? 妙本寺には比企一族の供養塔がある。

鎌倉三十三観音札所巡り(1-2):大町

http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-879f.html  

鎌倉・衣張山ハイク

http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2008/01/post_6f0e.html 

GW 鎌倉寺めぐり(1)

http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2008/05/gw_5ec1.html 

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秋川流域の寺めぐり(1):廣徳寺

5月24日、明光寺での墓参り、昼時になってしまい時間調整ついでに、武蔵五日市の宿の旧戸倉村の城山が近くに見える辺り、左に折Kotokuji_1_20090524れて急坂を下り、秋川に架かる橋を渡り、右折して直ぐ、入口に多数の石仏が立つ左手の山腹の坂を登る。広い駐車場は、雨模様のためか、車は見当たらず。

新宿の叔父に連れら初めて五日市小和田にある廣徳Kotokuji_3_20090524寺を訪ねたとき以来、40余年の月日が過ぎた。秋川流域は臨済宗建長寺派の寺院が極めて多いが、この寺は室町時代より地域の中心的な役目を負った。広い境内は禅寺らしい凛とした空気が流れる。

Kotokuji_7_20090524臨済宗建長寺派龍角山廣徳寺、建長寺の末寺、明徳年間(1390-94)に龍応智雲尼が開基、応永十年 (1403)に前建長寺住職が開山。御本尊は聖観世音菩薩像。その後、北条氏康(1515-1571年)が再興。北条早雲(1432-1519年)一族の位牌が伝わる。

文政二年(1819)に建てられた総門には前出雲国主松平Kotokuji_1_20090524不昧公(1751-818年)の筆になる穐留禅窟の扁額が掲げられている。その先、正眼閣と書かれた扁額を掲げた茅葺きの風格ある山門を抜け大銀杏の先に本堂が建つ。ミツウロコは北条の家紋。

生憎の雨に降られた年配のハイカーが境内中央の鐘楼で雨宿り。都指定天然記念物のタラヨウは本堂裏にあるが、カヤは見損なった。

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足利・寺めぐり:鑁阿寺、浄因寺、毘沙門天

5月26日、Wanderung und寺めぐりをした。有名な大藤の花の季節は過ぎ、街は落ち着いた佇まい。道順は下記link、足利Wanderungを参照下さい。

Ashikaga_7_20090626鑁阿寺(ばんなじ)

真言宗大日派本山金剛山仁王院法華坊鑁阿寺(ばんなじ)、建久七年(1196)創建、開基は足利義兼(1154-99年)、御本尊は大日如来像。広い境内は堀と土塁で四方を囲まれ、足利氏の居館であったことが知れる。

Ashikaga_1_20090526.掘に架かる珍しい屋根のある橋と山門を抜けると参道の先に正安元年(1299)建立の本堂(国重文)、その左手にベンガラ塗りの一切経堂(国重文)、参道右手に鐘楼(国重文)がある。左手には姿の美しい多宝塔が見えるが、中学3年の遠足で訪れた時の記憶より小さい。 

Ashikaga_9_20060526足利学校

平成二年(1990)、方丈と庫裡が復元され江戸中期の姿が蘇える。足利義兼(1154?- 99年)が多数の蔵書(国宝)を寄贈、庠主(学長)制度を設け、再興した。全国から集まった学生は僧籍に入り、民家に寄宿し、儒学、易学、兵学、医学を学ぶ。

.浄因寺

臨済宗行道山浄因寺、創建は和銅七年(714)、開基は行基菩薩(669-749年)。天台・真言・浄土・禅宗の四宗兼学の道場であり、「関東の高野山」と称され関東四霊場の一つである。永和二年(1376)、室町幕府の第三代将軍足利義満(在任1368-94年)が再興、法徳禅師が再興開山して臨済に改宗。元和九年(1623)、落雷で堂塔焼失。

.夥しい数の石仏が昔の栄華を偲ばせるが、民家風の粗末な建物と綱に繋がれた2匹の番犬からは、修行僧の読経の声は想像もつかない。信仰と修行の地再興の機運は失せ、山岳霊場は自然に呑み込まれつつある。

Ashikagaga_15_20090526毘沙門天

真言宗豊山派大岩山多聞院最勝寺、天平十七年(745)に行基菩薩が開基と伝える、御本尊は毘沙門天。大和の信貴山、山城の鞍馬山と並ぶ日本三毘沙門のひとつ。福徳 戦勝 仏法守護の御札を買求める。毘沙門堂前の縁台でラムネを飲む。うま!!!

.すでに4時半、地元の方と堂守のアドバイスで、両崖山経由織姫神社までのコースを諦め、叶権現コースで下山。そこから車で織姫神社まで送って頂く。毘沙門天の御利益!?

Ashikaga_16_20090526織姫神社

街と渡良瀬川を見晴らす高台(110㍍)に鎮座する。産業振興と縁むすびの神様。道路に面した鳥居の左脇にある自動水飲場や石段途中にある“八木節”演奏碑は、明治時代に機織日本一の土地柄を感じる。

.足利Wanderung

http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2009/06/wanderung_97dc.html

大岩山最勝寺毘沙門天

http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/saisyou.htm

鑁阿寺・足利学校・足利織姫神社

http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tochigi/AshikagaShi/Bamna/Bamna.html

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妙心寺;NHKテレビ日曜美術館

末妹から、妙心寺がNHKテレビで放映されると寺から知らされたとの電話を受けた。私が数年来、寺めぐりをしていることを知ってのこと。

臨済宗妙心寺派大本山正法山妙心禅寺、創建は暦応五年(1342)、開基は花園法皇、開山は関山慧玄(えげん)無相大師、御本尊は釈迦如来像。

不屈の禅                                                                               鎌倉五山の官営禅に対抗し、林下と称して、権力者に阿ることない姿勢を貫いた。

三人の絵師、海北友松、狩野山楽・山雪の描いた襖絵、屏風絵と白隠慧鶴の禅画の紹介があった。

海北友松(はいほうゆうしょう、1533~1615年):                       .浅井長政の家臣である父親、兄達を織田信長に殺され仏門に入るも、豊臣秀吉に画才を見出された。花卉図(重文)の牡丹は特に強い印象が残る。

狩野山楽(1559~1635年):                                                  同じく浅井長政の家臣の一族に生まれたが、浅井氏が織田信長に滅ぼされた後に、豊臣秀吉に仕えた。江戸時代になり、徳川家康に許され京狩野と呼ばれた。龍虎図屏風(重文)が紹介された。

Umeniyamadori_20090420狩野山雪(1589~1651年):                            .山楽の婿養子、天球院襖絵(重文、1931年)と“梅に山鳥”襖絵(写真は市販コピー)は見事なもの。実物を見たいものだ。

白隠慧鶴(えかく、1686~1769年):                                        夥しい数の禅画を描き、白隠禅師坐禅和讃を著した。駿府の寺の住職でありながら、妙心寺に呼ばれ禅問答をし、衰えていた臨済禅の復興に努めたという。

その他に“明智風呂”と呼ばれる浴室(重文)が紹介された。これも、弱き立場の人間を受入れる妙心寺の伝統を示すエピソードだ。別の情報によれば、明智光秀(1528~82年)は本能寺の変を起した後、1年間ほど妙心寺に身を寄せていたと伝えられている。

今年が開山無相大師六五〇年年遠諱大法会の年にあたる。寺数3400余、信者数650万人、高校ラグビーの強豪、花園高校がある。

法堂天井には狩野探幽(1602~74年)が1656年に完成させた八方睨みの雲龍図がある。チョット観には建長寺の龍に似ている。

今まで参詣した妙心寺派寺院は品川・東禅寺と松島・瑞厳寺、甲府・恵林寺、京都・龍安寺がある。なお私の実家の寺は臨済宗建長寺派である。

三田・品川散策:東禅寺                                                 http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-4b79.html  四寺廻廊:中尊寺・毛越寺・山寺・瑞巌寺(3)                             http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_75c5.html 妙心寺 近世障屏画のかがやき    http://www.myoshinji2009.jp/highlight08.html 

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池上本門寺・五重塔

京急蒲田駅→ 徒歩→ 東急池上線蒲田駅→ 池上駅→ 徒歩→ 池上本門寺  帰りは逆コースをとる。

4月8日、花祭りの日に本門寺を訪ねる。私の想像は外れ、小高い丘上に広がる開放的な寺院である。大樹は悉く戦災で焼失したのであろうか。

日蓮宗大本山長栄山本門寺、弘安五年(1282)創建、開山は日蓮、弟子日朗上人が引継ぐ、御本尊は木造釈迦如来像。日蓮は湯治の為に常陸に向う途中、武蔵・池上郷で池上宗仲の館に逗留中に入滅。

Ikegamihonmonji_3_20090408総門の先、加藤清正(1562~1611年)が寄進した巾広い石段、此経難持坂を登り詰め、仁王門を潜って右前方にベンガラ塗りの五重塔(国重文)が満開の桜に包まれて聳える。関東で一番古い(慶長十三年1608)塔として有名、二代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局の発願により建立。

大堂の右脇にある経蔵は総門と五重塔と共に戦災を免れた建物であり、天明四年(1784)に建立された。鐘楼脇の地上に置かれた旧梵鐘は加藤清正の娘(徳川頼宣の室)が正保四年(1647)に寄進した。

西島三重子 池上線 (東京・池上本門寺)                   http://www.youtube.com/watch?v=XgVGBCsEGgk&feature=related  安房・清澄寺                                           http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_92fc.html   叡山で修行した宗祖:日蓮(日蓮宗)                 http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-7152.html  坂東三十三観音札所めぐり(1): 鎌倉・逗子        http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_df09.html  GW 鎌倉寺めぐり(2)           http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2008/05/gw_c4fd.html 

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高麗八萬大蔵経

Koraihachimandaijokyo_20090408統一新羅時代AC802に創建された伽耶山海印寺の蔵経板殿(1448年建立)に版木81258枚が今に伝えられている。

世界最古の高麗八萬大蔵経は浄土宗大本山増上寺と龍谷大学(浄土真宗)が所有している。韓国に現存するものは精寺所蔵本(1865年)が最古と言う。写真は朝鮮日報webより転載。

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モンゴルの侵攻と高麗王高宗                                                     1231年、モンゴルが侵攻、翌年高麗王高宗(1195~1259年)は都を仁川沖の江華島に遷都。度々の侵攻後の1258年に降伏・従属。版木は高宗(1195~1259年)が15年かけて江華島で復刻した。ちなみに、蒙古来襲は文永ノ役(1274年)と弘安ノ役(1281年)である。

朝鮮では経典は不要なもの!

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中国・明王朝(1368~1644年)の属国である李氏朝鮮では、国教が仏教から儒教(朱子学)に変った。朝鮮王太宗(在位1400~1418年)は1414年、神勒寺所蔵の大蔵経を全て日本に送るよう指示した。ちなみに、応永二十一年(1414)は室町幕府第四代将軍足利義持(在位1394~1422年)の頃。

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最古の高麗大蔵経版本が日本にある理由(1)ttp://www.chosunonline.com/news/20090405000007 

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ぼくあずさのComment                                                           1. 韓国では仏教(22.8%)よりキリスト教(プロテスタント18.3%、カソリック10.9%)の信徒数が多い。儒教(0.2%)の他は無宗教と言われる                                     2. 李朝朝鮮の末期1882年(明治十五年)にキリスト教の布教が認められた                                      3. 長く中国の属国であり、儒教が国教であったことから、新しい宗教に対する抵抗意識が希薄であった                                4. 仏教や漢字を棄てたことにより、朝鮮の文化遺産への意識が希薄になる弊害は大きい!!!                             5. 日本人と韓国・北朝鮮人の思考パターンの違いは宗教や文化によるのだろう!

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世田谷美術館:中尊寺展

4月2日、砧公園の桜見物がてら奥州藤原三代の仏像を拝観した。

広々とした芝生に散在する巨木の桜は六、七分咲き。子連れの若い母親グループが地面まで垂れた枝・花の脇で車座になりお喋りに興じている姿が散見される。

阿弥陀堂(金色堂)の中央にある須弥壇中央の阿弥陀如来、その前左右の観音・勢至菩薩、両脇三体の地蔵菩薩と最前列左右の持国天と増長天がいずれも黄金の立像を拝む。

私が高校一年生の時、昭和二十九年(1954)の四寺廻廊で平泉を訪ねて以来初めてこと。思いの外、仏像が小さいのも御堂の大きさからすれば当然のこと。

思いもかけず伝慈覚大師円仁坐像にお目にかかった。永承二年(1047)に製作された、岩手・黒石寺に現存する。今でも円仁は大衆の心に残っていると言う。

夥しい数の経典や前九年合戦絵巻が陳列されている。

平泉近在の寺から多くの木造仏像が出展されているが、痛みが酷い。焼失しなかったのは幸いだが、仏教美術品の保護策が早急になされることが望まれる。

四寺廻廊:中尊寺・毛越寺・山寺・瑞巌寺(1)                      http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_8e98.html

天台宗;慈覚大師円仁                                      http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-4c02.html

開山 中尊寺金色堂    http://www.chusonji.or.jp/annai/konjikidoh/index.html

前九年合戦絵巻 早稲田大学http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_02035/index.html

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三浦アルプスWanderungと寺めぐり

新逗子から森戸川源流を極め、中尾根南稜線を乳頭山・田浦梅林までのWanderungがてら3つの寺をめぐった。

逗子・宗泰寺

新逗子駅から桜山隧道へ行く途中、桜山の麓、田越川西岸にある。裏山の傾斜面が墓地になっており、中腹に鐘楼がある。

高野山真言宗海向山宗泰寺、創建は鎌倉時代、御本尊は阿弥陀如来像。木造十王及び奪衣婆坐像がある。

Fukugenji_1_20090328葉山・福厳寺

森戸川源流歩きの途中、阿部倉山に近く、森戸川沿いにある。数年前に隣接してマンションが建設され、昔日のロケーションの良さは失われたことは、真に残念。金儲けの為に、自然破壊が進む。

Fukugenji_2_20090328臨済宗建長寺派殿谷山福厳禅寺、開基は長江太郎義景。

本堂の裏手は砂岩崖が迫り、1株のヤマツツジが開花、庭掃除が行き届いており雰囲気がとてもよい。小さな山門は鐘楼になっており、夕刻六時に刻の鐘が鳴る。

田浦・長善寺

三浦安針の墓がある塚山公園への捷径、十三峠(浦賀道)の麓にある由緒ある寺。背後の崖にひな壇状 墓所は、ここ三浦半島ではめずらしいことではない。

Chozenji_20090328浄土宗西林山吉祥院長善寺、鎌倉時代に天台宗の寺として創建、永禄元年(1558)に長善讃譽上人が再興、改宗された。御本尊は阿弥陀如来像、三浦道寸義同の守護仏・不動明王立像がある。

長江太郎義景                                   http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/nagaeyosikage.html

春の訪れ遅い森戸川源流 http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2009/03/post_697d.html

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六代御前墓

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす おごれるものも久しからず ただ春の夜の夢のごとし

六代将軍平高清(1173~1198年)は文治元年(1185)、壇の浦の戦いに破れ、京都嵯峨野に逃げたが北条時政(1138~1215年)に捕らえられた後、文覚上人(1139~1203年)の尽力で助命され、高尾神護寺に身を潜めた。建久九年(1198)に再び捕われ、鎌倉に移送され、逗子田越川原で斬首されたと伝えられる。

墓碑は斎田三左衛門尉平典盛が江戸時代に建てた。

文覚上人                                                                      http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-0f91.html  六代御前の墓              http://shungansho.fc2web.com/genpei/g-02.htm 

長柄桜山古墳群と「まる秀」http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2006/07/post_a387.html

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曽我五郎十郎と二宮金次郎の史跡めぐり

国府津・曽我丘陵は観梅目的で度々Wanderungしたが、2月22日は別所での観梅の他に、小田原観光で欠かせない曽我五郎十郎と二宮金次郎の史跡を訪ねた。

登場人物                                     河津祐泰(?~1176年):五郎十郎の父、工藤祐経に殺された   満江(まんごう)御前:五郎十郎の母                        曽我祐信(すけのぶ):満江御前の再婚相手、五郎十郎の義父      曾我十郎祐成(1172~93年):建久4年(1193)5月28日(陰暦)、源頼朝が富士の裾で催した鷹狩りの際に父の仇、工藤祐経を討ちとったが、殺された                                 曾我五郎時致(1174~93年):祐成の弟、仇討ちを遂げた翌日、源頼朝から尋問を受け斬首された                       虎御前(1175~1245?年):祐成の恋人、祐成の死後尼になり伊豆大磯の高麗山中に庵を結び、兄弟の供養の日々を生きた

彼女の口承が広がり、曽我物語の原型ができたと言われる。延宝4年正月(1678年)に初代市川團十郎が初演した寿曾我対面が大当した。文末にlinkした早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧から江戸時代の人気の程が知れる                              北条時政(1138~1215年):政子の父、五郎十郎の後ろ盾     工藤祐経(?~1193年):源頼朝の家臣、五郎十郎に仇討された

Sogabairin_3_20090221満江御前の墓                        展望台から農道を下り別所梅林に近い処、日蓮宗千葉山法蓮寺にある。

曽我兄弟の墓    

前方に富士山を眺められる小高い処に浄土宗城前Sogabairin_7_200902221_2寺はある。叔父宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔い創建。命日には傘焼き祭りが行われる。曽我城の土塁跡に曽我兄弟、義父・祐信、母満江御前の供養塔がある。

二宮尊徳の遺髪塚                                              Sogabairin_5_20090221大山道に面した処に二宮尊徳(1787~1856年)の遺髪塚がある。農業指導中の日光山領で亡くなり、今市市に墓がある。

下曽我駅近くで3月1日の中学の学友との三浦半島散策用に地酒曽我の誉れを買求め、電車で小田原へ。4時半、小田原城まで歩き時間調整しSogabairin_9_20020221_2てから、お馴染みの富士丸で地魚の煮物を肴にビーアを飲む。

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国府津・曽我丘陵のWanderung http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2009/02/wanderung_1d9b.html 

早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=30&gadai=%A1%D6%C1%BE%B2%E6%BD%BD%CF%BA%CD%B4%C0%AE%A1%D7

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遊行寺と藤沢宿(2)

(永勝寺)→ 白旗神社→ 妙善寺→ 真浄院 真徳寺→ 遊行寺→ 山王神社→ 感応院 江ノ電藤沢駅→ 江ノ電→ 江ノ島駅(浜野水産)→ 鎌倉駅

Fujisawajyuku_9_20090213義経首洗い井戸は見落とし、源義経公を祀る白旗神社へ。境内からは高層建築物は見えず、環境は良い。ttp://www.st.rim.or.jp/~success/sirahata/sirahata.html

白旗川沿いの道に平行する遊行寺方面へ続く古道を往くと程なく、日蓮宗妙善寺。お賽銭をあげてから更に進むと広々とした石畳の遊行寺の参道入口前へ。

Yugyoji_5_20090213参道の右・左に真浄院と真徳寺(朱色写真)の2つの塔頭がある。何処も掃除が行き届いており、総本山の持つ雰囲気・規律が感じられる。正面に涅槃図を公 開している大きな本堂、左手に安政六年(1859)に建てられた中雀門と放生池が、右脇奥に小栗堂、小栗判官・照手姫ゆかりのお寺がある。

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Yugyoji_4_20090213遊行寺                                    時宗総本山藤澤山無量光院清浄光寺、創建は正中二年(1326)に遊行四代呑海上人が開基。一遍上人が正応二年(1289)の入寂後のこと。御本尊は阿弥陀如来立像。

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少し道に迷い感応院の山門を見つけて一安心、後で拝観することにして小川沿いを歩き、バス道路脇の石段の上にある小さな山王神社へ。古そうな石碑があるが、早々に感応院に戻る。

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真言宗感応院の境内には宝形作りの三嶋明神堂がある。な・なんとお堂が回転する。://www.sukima.com/04_fujisawa/02kanouin_06.mov

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江ノ島駅近くの浜野水産の釜揚げシラスは3回連続で買えず。    Ich habe bis heute drimal Pech gehabt! (それはないよ、セニョリータ) 今年から元日から3月10日まで禁漁になったとのこと。近年イワシの漁獲量が激減していることか、やむなし。

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涅槃会                                  http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-4895.html

一遍上人                                http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-986f-1.html遊行寺と藤沢宿(1)                          http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-d9ee.html

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遊行寺と藤沢宿(1)

鎌倉駅→ 江ノ電→ 腰越駅(昼食)→ 藤沢駅→ 徒歩→ 庚申堂 江の島弁財天道標   白山神社 金砂山観音堂 常光寺 荘厳寺 →永勝寺

2月13日、腰越駅下車して、先ず東国第八十五番札所 浄泉寺と、国道を越えて小動岬の小動神社を参拝。開店時刻に合せ腰越鱗亭へ。スパゲテイ、イカスミ・ボロネーゼはイタリアの田舎味。

東国八十八札所めぐり(3):江ノ島・鎌倉http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2007/11/post_9a2e.html

遊行寺で公開されている涅槃図を観る序に藤沢宿を散策。初めて歩く藤沢駅界隈であるが、遊行寺から江ノ島への旧道に沿った処に社寺があるので道に迷うことはない。ここがと思う様な神社が藤沢市発行のコースに記されていて驚くこと度々。

藤沢宿・遊行寺コース                    http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/manabi/bunzai/fujisawa.html.   Fujisawajyuku_1_20090213 Fujisawajyuku_2_20090213_2

藤沢宿が栄えた頃 に建立された見事な彫りの石塔が多数ある。庚申堂、江の島弁財天道標など。

常光寺                                      Fujisawajyuku_4_20090213_3 Fujisawajyuku_5_20090213_4 浄土宗八王山摂取院常光寺、鎌倉光明寺の末寺。御本尊は阿弥陀如来像。元亀三年(1572)に創建、開山は明蓮社光誉上人。山門を過ぎ、境内左手にカヤの大樹。明るい境内、ベンチで小休止。弁慶の墓と言い伝える石塔がある。

荘厳寺                                                                                   古義真言宗高野山派白王山般若院荘厳寺、白旗神社の別当寺、御本尊は伝運慶作の不動明王像。

永勝寺                                                                                  Fujisawajyuku_8_20090213_2浄土真宗、飯盛り女と呼ばれた娘たちの墓石が立ち並んでいた。墓石を建て葬られたことは、せめてもの供養、踊念仏の鉦の音が聴こえる。

永勝寺の飯盛り女悲話                                                          http://tokdo53.arrd.net/hr-02/hiro01/7mesion.html 

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涅槃会

Yugyouji_2_20090213お釈迦さまはBC383にクシナガラの沙羅双樹の林の中で頭は北向き、心臓を上向きに横たわる御姿で涅槃(入滅)されたと伝えられる。寺では涅槃図を本堂に掛け仏遺教経を読経する。

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Yugyouji_11_20090213_4インド暦の二月の満月の日(ウェーサーカ祭)。我が国では旧暦二月十五日、今では新暦二月十五日に営まれる。

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Yugyouji_12_20090213 写真は十三日に相模国藤沢宿にある時宗総本山遊行寺(うぎょうじ)を参拝した際に撮影した。明治二十年に描かれた、それは見事なものである。.

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願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃.             西行法師が亡くなる10年ほど前に詠んだものと云われる。如月の望月とはお釈迦さまの命日。西行は二月十六日に亡くなった。

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遊行寺の踊念仏                                                          http://www.youtube.com/watch?v=qUdvaXtOmj0 

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安房・岩井:波の伊八と福聚院

Tomisan_8_200901111月11日(土)、富山ワンデルングの際に福聚院に立寄る。JR岩井駅より登山口の福満寺へのバス道を歩くこと10分ほど。

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曹洞宗慈眼山福聚院

Tomisan_6_20090111450年ほど前に創建、天正七年(1578)に現在地に移設。勝山藩初代藩主酒井忠国が父親の忠朝の供養の為に、寛文三年(1662)その屋敷と山門を寺に移築、現在は山門のみが残る。波の伊八の彫刻を拝観。

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うちつれて行かもほしけれ房州の びわ山畑の黄にひかる頃.    多喜蔵

房州びわ 品種改良第一号・・・福聚院びわ  山門前右に歌碑がある。

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明治十八年(1885)、御住職の富山泰宣師が、下谷・根岸のととやで食べた大粒のビワ.

の種を持帰り、境内に植えたのが始まりと言う。我庭のビワも戴きものの特大ビワの実生である。此方は施肥をしないので小粒であるが、現地で買うものより美味。毎年6月の収穫が楽しみ。

/水仙の甘い香りがする書斎にて

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安房・富山の水仙(2)

http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2009/01/post_6c1b.html 

小粒だがschmeckt es sehr gut:ビワ

http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2008/06/schmeckt_sehr_g_9c7a.html 

宮彫師伊八を訪ねて

http://www.jreast.co.jp/tabidoki/chisanatabi/pdf_chiba/2006at_chiba_15_18.pdf 

切手に見る千葉

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nakanisi/kitte.htm 

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三田・品川散策:東禅寺

田町駅→ 西郷・勝会見の地→ 綱町三井倶楽部→ 慶應三田キャンパス→ 高輪大木戸跡→ 泉岳寺→ 東禅寺→ 品川駅

11月22日快晴、学友 N.Horiさん主催の散歩会、10時半に田町駅西口集合、総勢7名。品川宿まで歩く予定であったが、アトレ品川で遅い昼食を摂った後に散会。

Mitashinagawa_2_20081122田町駅から横丁を歩き第一京浜を右折して数分の処に西郷・勝会見の地を示す碑がある。幕末には海岸に近く、薩摩藩の蔵屋敷があった処。

東京タワーが近づいた処で左折し、綱の手引き坂を登った左側に、コンドルが設計した三井倶楽部の洋館が見える。坂を引き返し、慶應三田キャンパスの裏手から入る。折しも創設150年祭の最中、女子大生3人の客引き。友人に誘われて100年祭で日吉キャンパスを訪ねた時は神輿に出会った。どうも、我らが早稲田とは雰囲気が違う。

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N.Horiさんの案内で寺町の細い道を縫って歩き、昨年3月に江戸三十三観音札所めぐりで歩いた聖坂の第二十六番済海寺の近くに出る。更に何と第二十七番道往寺の細い抜け道を通り、第一京浜を横断して高輪大木戸跡を見物。

宝永七年(1710)、東海道の江戸府入口に設けられた大木戸跡、今も石垣の一部が残る貴重なもの。元々は両脇に長さ五間(9㍍)、幅四間(7.27㍍)、高さ一丈(3㍍)の石垣。伊能忠敬(1745~1818年)が全国測量の基点とした。

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Mitashinagawa_7_20081122東禅寺

臨済宗妙心寺派別格本山海上禅林佛日山東禅興聖禅寺。創建は慶長十四年(1609)、開基は伊東祐慶、開山は嶺南崇六。寛永十三年(1636)に現在地に移転。幕末に起きた東禅寺事件の舞台。尊皇攘夷の時代のこと故、私は個人的に事件と呼ぶことに違和感をもつ。

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東国八十八観音札所めぐりで訪ねた横浜辺り、幕末の頃、仏人や英人が無礼・狼藉を働く者が多く、庶民の反感をかっていたことを知ったが、高輪大木戸でさえ同様であったと推察される。

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http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jikennbo/touzennjijiken/touzenjijiken.htm 

明治維新事件簿

http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jikennbo/taitole.htm 

江戸三十三観音札所めぐり:第二日(三)

http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2007/03/post_7c86.html 

江戸三十三観音札所めぐり:第二日(四)

http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2007/03/post_b650.html 

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天台宗と浅草寺

最近まで浅草寺が昭和二十五年(1950)に聖観音宗の大本山に改宗したこと、南無観世音菩薩のお呪いが聖観音宗のそれであること、大正大学が天台・真言・浄土の三宗の大学であることに気づかなかった。

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私は旧天台中学の流れを汲む中学に1951年に入学、天台宗の僧侶である先生に引率され寛永寺、浅草・伝法院や目黒不動を訪ねた。勿論、浅草寺は天台宗であると信じていた。

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札所・寺めぐりをすると、日光・輪王寺の勝道上人の銅像を例外として天台宗の寺には銅像らしきものはない。これは真言・日蓮・時宗などとの目に見える違いである。

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比叡山延暦寺根本中堂の回廊には法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった宗祖たちの大きな肖像画が懸けられている。これも顕・密・禅・戒の四宗を修行する天台宗の教えの広さと無関係ではない。

顕=経典や注釈書を読めば理解できる教え

密=実際に修法を行なわねば理解できない教え

禅=座禅をはじめとする瞑想修行

戒=自律的かつ他律的に生活そのものを修行

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なお、天台宗では南無阿弥陀仏を唱え、宗派御本尊は阿弥陀如来像、臨済宗では南無釈迦無尼仏、釈迦如来像である。

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浅草・伝法院

http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-7299.html 

比叡山延暦寺

http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_2de1.html 

天台宗

http://www.tendai.or.jp/ 

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中学写真部仲良し三人組:浅草・伝法院

初めての拝観は中学1年生の時、昭和26年(1951)のことだから、もう半世紀前のこと。今回は、中学写真部仲良し三人組のひとりK君からお誘いがあった。観音堂落慶50周年大開帳記念の特別公開。戦時中も疎開せず根岸に留まっていた彼は昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で観音堂が炎上、翌日大屋根が焼け落ち太い柱のみが残った恐ろしい光景が今でも脳裏に浮ぶと言う。

Sensoji_0_2008111411時10分前、雷門前、KU und T さん、ニコニコ顔が私の到着を迎えてくれる。年配の人待ちのご婦人にシャッターをお願いして全員で記念撮影。左端がぼく。門を潜り、すぐ寄り道。1両小判を300Yenで買求める。仲見世をお喋りしながら進むと入母屋造の寶蔵門の手前の伝法院。ここは観音堂の東側にある元和四年(1618)建立の二天門(国重文)、や慶安二年(1649)再建の浅草神社(あさくささんじゃ、国重文)と共に、戦災で焼け残った貴重なもの。

Sensoji_16_20081114第三世天台座主慈覚大師円仁(794~864年)が謹刻された、聖観世音菩薩御前立御本尊の御開帳を拝観。

五重塔脇から浅草寺の本坊、伝法院の宝物殿へ。大Sensoji_9_20081114絵馬の数々や高村光雲作の沙竭羅龍王の本物を拝観。写真撮影禁止なのが残念であるが、真近に見る本物のもつ迫力に圧倒される。小野道風(894~967年)の一切経(国宝・写)を見て、美しい楷書に見入る。いつか本物を拝観したいと思う。学友 Aさんが、王義之の直筆の書を、何度も見にいったという気持ちが分る。

Sensoji_14_20081114寛永年間(1624~43年)、小堀遠州(1579~1647年)の作と伝えられる回遊式庭園。私が記憶する日本庭園で、最上級にランクしたい。

中清で食事をした後、K君の案内で穴場めぐり。子供の頃の遊び場が上野・浅草ということも肯ける。な・何と弁天堂の境内に芭蕉の句碑がある。来春の花見の折に忘れずに再訪しよう。

来春三月、三浦・松輪でさかな料理を食べることを決め、早々に散会。

坂東三十三観音札所めぐり(6):浅草寺

http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_85a8.html 

浅草寺伝法院庭園

http://torapi.fc2web.com/200810denbouin.htm 

小堀遠州と龍安寺の石庭の謎について!!

http://www31.ocn.ne.jp/~yukichi_honda/trip/tabi_03.htm 

天麩羅 中清

http://www.nakasei.biz/index.html 

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善光寺詣と佐渡(3) 

忘却とは 忘れ去ることなり忘れ得ずして 忘却を誓う 心の悲しさよ

前年から放映が始り、大変な人気のNHK連続ラジオドラマ、菊田一夫(1908~73年)君の名は の映画ロケが行われたばかりという尖閣湾、断崖絶壁と澄んだ海で知られる景勝地。揚島という岩に架かる遊仙橋という名の吊橋、真知子(岸恵子)と春樹(佐田啓二)の再会の地。巷では真知子マキが大流行。

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東京大空襲の夜、主人公・真知子が銀座・数寄屋橋で名も知らぬ男(春樹)に出会い、互いに生きていたら半年後、それがだめならまた半年後にこの橋で会おうと約束して別れる・・・

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遊仙橋を往復してから、観光バスで真野へ。佐渡国分寺跡を見学した後、順徳上皇の御火葬塚である真野御陵を訪ねる。承久の変を起こした父子は隠岐と佐渡へ流され、その地で崩御された。

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天正17年(1589)、上杉景勝(1556~1623年)は佐渡の本間氏を討伐した。天正23年(1595)、豊臣秀吉により佐渡金山の支配を任せられた。彼は島にあった天台宗の寺を真言宗に改宗したと云われている。では、何故修学旅行先に選んだのか、いまだに謎である。

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佐渡の人口推移

寛保元年(1741)   90、334

明治5年(1872)  106、262

昭和25年(1950) 125,597

平成17年(2005)  67、384

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トンチボとは狸のことなり

バスガイドさんから佐渡方言の紹介がある。担任のCA先生にトンチボの渾名を奉った学友がいた。やがて青忠さんが復活した。

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母へのみやげ 

中気にならないとの口上が気になり、宿に出入りの商人から湯呑みを買求めた。金山の赤土を使用しており、比較的高温で焼いているので、堅牢である。今でも実家に保存されているが、釉薬なしであり湯呑みには向かない。

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無名異焼

http://members.fch.ne.jp/matumitu/sakazuki-pdf/1-3mumyoi-kimen-sakazuki.pdf 

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上野・寛永寺

天台宗東叡山寛永寺、開基は寛永二年(1625)に徳川第三代将軍家光(在職1623~51年)、開山は天海上人。祠堂32宇、子院36坊、伽藍7堂を誇った。元禄十一年(1698)、根本中堂は建立直後に新橋南鍋町からの出火で炎上。宝永六年(1709)再建されたが、上野戦争(1868)で焼失した。

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明治新政府により、広大な境内は没収され、その略半分は国立博物館や上野動物園を含む上野恩賜公園となった。現存する建物は不忍池畔にある寛永八年(1631)創建の清水観音堂や上野動物園内にある寛永十六年(1636)に建てられた国重要文化財の旧寛永寺五重塔(都所有)などがある。

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現在の寛永寺はJR鶯谷駅近くにある。本堂は明治十二年(1879)に川越の喜多院の本地堂を移設したもので、寛永十五年(1638)に建立された建物、御本尊は薬師如来像。

大慈院は第十五代将軍慶喜(在職1866~68年)が朝廷への恭順の意を表すために謹慎・蟄居した場所として知られる。

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明治新政府による仏教弾圧、特に寛永寺はお取潰しに近い過酷な処理を受けた。私は天和二年(1682)に寛永寺境内に設けられた寺子屋、勧学講院を起源とする元旧制中学で学んだ。

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東叡山寛永寺

http://www.asahi-net.or.jp/~DZ3Y-TYD/tera/kaneiji/kaneiji.html 

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比叡山延暦寺

初めて叡山を訪ねたのは高校2年の関西修学旅行、昭和30年(1955)のこと。理由は知らされず、予定されていた姉妹校比叡山高校の生徒との交歓会なし。坂本に下山して琵琶湖遊覧が取止めになり、港で暇つぶし。帰京後に流れた噂では、前日の宿泊地、京都の旅館で大人びた輩数名が脱衣棚に登り女湯を覗いた事件があったらしい。

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平安末期から鎌倉時代はじめに、此処で学び、または出家得度された法然(1133~1212年)・栄西(1141~1215年)・親鸞(1173~1263年)・道元(1200~53年)・日蓮(1222~82年)といった日本宗教の浄土宗・臨済宗・浄土真宗・曹洞宗・日蓮宗の宗祖たちの大きな肖像画が根本中堂の回廊に懸けられている。

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真夜中の根本中堂での勤行参加希望者が募られたが、仲良し三人組は寝入ってしまい、折角の好機を逸したことが悔やまれる。

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天台宗大本山比叡山延暦寺、延暦七年(788年)に伝教大師最澄が開山、御本尊は最澄自作と伝える秘仏薬師如来立像。本尊厨子前に不滅の法灯が1200余年の歳月を経て灯り続けている。中尊寺と山寺に分火され護持されているが、いずれの法灯も高校1年の修学旅行の際に拝観した。

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織田信長(1534~82年)による比叡山焼き討ち(1571年)に遭った。根本中堂(国宝) は寛永十九年(1642年)に徳川家光(1204~51年)によって再建された。

山に行かれる方は山頂の宿坊に泊まられることをお勧めする。

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比叡山延暦寺 hp

http://www.hieizan.or.jp/ 

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薩長連合前夜の手紙

Sakamoto_ryoma_200807231866年1月21日に結ばれた薩長連合の仲立ちをした坂本龍馬(1835~67年)がめいの春緒に宛てた手紙が京都国立博物館で公開された。つい先日、京急大津駅近くにある信楽寺(しんぎょうじ)を訪ね、お龍(りょう)さんの墓に参拝したばかりなのに何かの因縁を感じる。

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龍馬は、慶應三年(1867年)、京都の河原町の近江屋で暗殺され、八坂神社近く、維新の道の先、霊山(りょうぜん)護国神社の石段を登った丘陵中腹に埋葬されている。

京都生まれのお龍さんは晩年横須賀に住み、龍馬の墓参を渇望しながら、果せなかったと云う。今は二人仲良く京の町を眺めながら、お喋りをしていることだろう。

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今夏はセミの出現が遅い。煩いほどの合唱、ほどほどにして欲しいものだ。書斎は32℃、湿度65%。一番の暑さだ。

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横須賀:坂本お龍と小栗上野介

http://dorfflueren.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_4f79.html 

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横須賀:坂本お龍と小栗上野介

幕末変革の舞台になった横須賀、戦前は大日本帝国横須賀海軍鎮守府、戦後は米軍横須賀基地。真昼の暑さを避け、午後から京急大津→汐入→横須賀中央を散策。

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Sakamoto_oryou_2_20080716午後3時過ぎに京急大津駅下車。駅近くにある浄土宗信楽(しんぎょう)寺を初めて訪ねた。坂本龍馬の妻お龍(りょう)(1841~1906年)の墓前で彼女の冥福を祈る。二人はいったいどんな会話を交わしたのだろうか。立札の写真はお龍さん、美人ですな。

高知にある記念館のhpに龍馬が姉乙女に宛てた手紙(慶応二年十二月四日付け、複製)の写真が掲載されている。そこに「龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり」と記されている。

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Welny_park_2_20080716次に京急汐入駅近くのウェルニー公園へ。軽井沢に住む学友I.Watanabeさんからのmailに小栗上野介が書かれていた。ここは戦艦長門の母港として全国に名を馳せていた処、今では日米の戦闘艦が多数停泊している。小栗上野介はどんな想いでいるであろうか。

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久しぶりに三笠公園に立寄る。戦艦三笠脇で10人ほどの僧侶が読経、戦没者のお盆回向なのか。広場では西馬音内盆踊り(国重要無形民俗文化財 )の輪。最近テレビで見たが、此処でお目にかかるとは。音楽噴水を見物しながら涼をとる人、黒人がひょっこり現れドギマギ、米軍基地であることを知る。

BAR TUNAMIを再訪、ビーフのタコスとセルベッサ(Corona)を注文。戦時中、横須賀の通信隊にいた本家の叔父は当時の話をすることは無かった。早い時期に負け戦の情報を得ていたのであろう。

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龍馬の妻お龍さん

http://www.ic-y.jp/furusato/furusato_p46.html 

高知県立坂本龍馬記念館

http://www.ryoma-kinenkan.jp/

幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介 

http://tozenzi.cside.com/kenbun.html 

西馬音内盆踊り

http://www.ugomachi.com/e_ugo/bonodori/index.html 

横須賀 BAR TUNAMI

http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2008/06/bar_tunami_9792.html 

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